いらない箱 1

生きているのが虚しくなった。


前々からそういう、ぼんやりした虚無感みたいなものにいきなり襲われることがあった。
それは、夜、もうすぐ寝付けそうだと意識が朧気になってきた瞬間や、人とついさっきまで楽しく話していたはずの瞬間に訪れて、私はいつもその鬱々とした訳の分からない感情に振り回されるのだった。
自分はつまらない人間なのに、人生が充実した人間が悩むような事柄で一丁前に悩んでいるということには、途方のないほどの引け目が存在する。
その「訳の分からない申し訳なさ」みたいなものと、「生きている」という事への虚しさが合わさって、なんだかひどく疲れてしまっているような気がする。贅沢な悩みだ。

そう。贅沢だと分かっている。

話は変わるが、私は以前、鬱病に罹った。高校生の時だった。
いま振り返ると、当時の私は私のことを「正常」だと思っていた節があると思う。そんなことは無かった。正しく、あの頃の私は病人だった。そんなことに気づけないほど、当時は生きることに疲れ切っていたと思う。

私は幸せな人間だった。特に父親は人格者で、私はこの人が居なければ、こうして大人と言うべき年齢になり、社会に混じり、これから日本を支えていく若者の一端となることは出来なかったと思う。
母親も、少々難がある人ではあったが、私のことを大事にしていてくれた。とても、とてもいい人達だ。
それに比べて、私は何なのだろう?
私は、私のことをまったくの優等生だと認識していた様な気がする。大人に異は唱えなかった。誰かの指標になれるよう努力もした。勉学にも励んだし、部活にも丁寧に打ち込んだ。本を読むことが好きで、活字にも真面目に向き合った。幼い頃は、それでよかった。多分、それでうまく「人としてやれていた」。

なんだろうな。どこがだめだったのだろう。ある時、どうしようもなく人が怖くなった。他人の全てが恐ろしくなった。部活をしている最中、ふと襲われた恐怖だったと鮮明に覚えている。その時は、高校1年生で、ようやく高校生活にも慣れてきた頃だった。

いや。2年生だったかな。どうだろう。少し記憶が曖昧だ。嫌なことは忘れてしまいたいという、忘却を介した無意識な防御反応なのかもしれない。
なのに、本当に馬鹿みたいだけれど、教科書でぱんぱんに膨らんだ黒革の学生鞄の重さだけが忘れられない。あの鞄の重たさだけが、今でも私の腕に残っている。

話が逸れた。
たしか、夏だった。夏の、日は翳ってきたけれど、それでもまだまだ暑さが残ったままの夕方。練習をしていた私の陰が、ひどく長く廊下に伸びていた。
私は長らくその部活に関わってきていたから、数人の先輩よりも大分知識も技量もあったと自負していた。その中で、様々な人から当然のように私を頼ってもらったことを覚えている。
部活の顧問からも、真面目かつ技量がある私には期待が寄せられていた。次期部長であると告げられていたし、その為に必要な全てを自分が補えるよう奮闘していた。頑張っていた。そんな折だった。

先輩がその日、一度も私と共に練習をしなかった。部活には来ているのに、私には一度も顔を見せなかった。

ああ、分かりにくいな。もう書いてしまうが、私は実力としては中堅付近の吹奏楽部に所属していた。その中で、パートにおける先輩が、その日一度も共に練習をしなかったのだった。

その人はとても奔放な人で、音楽における技量は差ほど無かった。けれど、人望はあった。同年代からも上の人からも下の人からも好かれる人柄があった。
私は多分それが、とても羨ましかった。自分には一生できないことだったから。私は、私に与えられた役割のうえでしか人と上手く関わり合いが持てない、「人間下手」であることを知っていた。
だから、他のパートの人の所に遊びに行き、それを注意されることもなく人の輪の中で笑っているだろう先輩のことを、唯々ひとりで基礎練習をこなし、応用練習を行っていた私は、少しばかり憎く感じたのだと思う。きっと。

そして、それから人と関わることが嫌になった。

どうしても他人と関わるのが気持ち悪くなった。誰とも言葉を交わしたくなくなった。学校に行くのが苦しくなった。誰の目にも自分は映っていないことを、確認するのが怖くなった。

そうして鬱病になった。
家族からはとても心配されたし、カウンセラーの方からも「何が原因なのだろうか」とやさしく問うてもらった。
原因なんてないことを私は知っていた。
両親は私が虐められているのではないかと心を痛めてくれていたというのに、私が他人が恐ろしくなったのは、くだらない私の甘ったれのせいなのだった。本当に情けない。
あの頃の私は、私以外の全てに私を肯定して欲しかったのかも知れない。そんなこと有り得ないのに。

あの日から、私は他人と関わりたいと思えないのだった。人の目が怖い。多分、過度な被害妄想に苛まれている。結局、人と関わらずに生きていきたくて、地元から遠く離れた学校に通うことにした。
友人はいる。多分。まあ、私は彼女たちのことを友人だと思っているが、相手がどう思っているのかは知らないけれど。きっと友人なのだと思う。
だというのに、彼女たちのことですら時折煩わしくなる。この世界からはやく消えたいなと思ってしまう。これ以上他人に迷惑をかけずに、さっさところりと死んでしまいたいものだと思う。

誓って言うが、別に死にたいわけではない。自殺など考えたこともない。死にたいわけではないが、生きている価値もないのではないかと思うという話なのである。

でもまあ、こんな話、どうでもいいか。どうでもいいな。はやくひとりで生きていける世界になるといいが、そんな世界は人として生きる上では有り得ないので、やはり生きることが虚しくてたまらないという話しになるのである。